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第12回公演  ジョスカン・デプレ ミサ 「ロム・アルメ」

(解説:ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 杉村 泉)

1 ジョスカン・デプレ/Josquin Desprezの生涯

ジョスカン肖像  “オルトラモンターノ oltramontano”(oltremontanoとも綴る)──ルネサンスの時代,アルプスを越えてイタリアにやって来たフランドル出身の音楽家たちは,「山の彼方から来た者」という意味で,こう呼ばれました。
 ルネサンスを代表する作曲家であるジョスカン・デプレ(1440頃─1521)も数多いオルトラモンターノのなかのひとりでした。彼は,現在の北フランスのピカルディ地方に生まれたと言われていますが,若いときにミラノに赴き,大聖堂聖歌隊や宮廷礼拝堂の歌手として活躍しました。その後もローマの教皇庁礼拝堂の歌手やフェッラーラの宮廷楽長などを務め,イタリアで過ごした期間は延べ約30年にわたります。晩年にはフランドルに戻り,1521年8月27日に亡くなるまで,エノー地方(現ベルギー東部)のコンデ-シュール-レスコーという町で大聖堂司祭を務めました。

 ジョスカンはミサ曲やモテットなどの宗教曲のほか,シャンソンなどの世俗曲と若干の器楽曲を書いています。彼の作品は,生前から既に非常に高い評価を受けていました。ひとりの作曲家の作品が1冊の曲集として出版されること自体が珍しかったこの時代に,ジョスカンのミサ曲集が3冊も出版されていることからも,そのことは伺い知ることができます。そして,この印刷譜によって,彼の作品は西ヨーロッパ全域に知れ渡り,当時の音楽家たちの作曲の規範として尊敬を集めることになったのです。グーテンベルクが聖書の印刷をしたのが1455年頃のことですから,ジョスカンは活版印刷技術の恩恵を受けた最初期の作曲家と言えるかもしれません。もっとも,彼の楽譜はよく売れたので,印刷業者たちはたびたびジョスカンの名で他の作曲家の作品を出版し,後世の研究者たちを大いに悩ませることになりました。
 ジョスカンの生涯については,あまり詳しいことはわかっていないのですが,フェッラーラ公エルコーレ1世の廷臣のジャンという人物が,宮廷礼拝堂に招く音楽家の選出に関して,自分の意見を述べた一通の興味深い書簡が残っています。
「私から見ますと,閣下にお仕えするのはジョスカンよりもイザークの方がよろしいかと思います。(中略)確かにジョスカンの方が作曲は上手ですが,気が向いたときしか作曲しません。それに,イザークは120ドゥカートの給料で来ると言っているのに,ジョスカンは200ドゥカート要求しています」結局,ジャンの進言も空しく(!),ジョスカンはフェッラーラに迎えられることになるのですが,この書簡のお陰で,殆ど人間業とは思えない数々の名曲を生み出した大作曲家の「気分屋かつちゃっかり者」という意外な素顔を,500年経った今も私たちは垣間見ることができるのです。

2 楽曲解説

 ジョスカンの声楽曲のなかで,モテットはテクストが広範囲にわたって選択され,恐らく彼の最も変化に富んだ手法の見られるジャンルである。とりわけ,円熟期と言われる15世紀末から晩年においては,初期の模倣やカノンの多様な技法を凝らした作品に比べ,音と言葉の関係がより密接なものとなり,歌詞のデクラメーションにも細心の注意を払った,洗練されたスタイルの作品が生み出された。
 晩年のコンデ時代には,詩編を歌詞とする4声部の作品が多く書かれたが,《深き淵より》もそのひとつで,模倣に用いられるモチーフは一層緻密になり,極力無駄を排した作品となっている。詩編曲とともに晩年のモテットにおいて重要な位置を占めていたのが,定旋律モテットである。

《深き淵より》の定量白符 "De profundis clamavi ad te Domine"

 《悲しみの聖母》は,ジル・バンショワのシャンソン《落胆した女のように》のテノール旋律を音価を拡大して用いている。ジョスカン研究者のエルダースは,これを「悲しみにくれるマリアの苦悩を定旋律の選択を通じて神秘的に解釈した」ものと述べている。定旋律を使用するという技法そのものは,この時代には既に古めかしいものになりつつあったが,定旋律を歌うテノール以外の声部では独創的な新しい手法が駆使されている。この定旋律には全く切れ目がなく,原譜では冒頭にシャンソンのタイトルしか書かれていないことから,器楽演奏を主張する研究者も多い。また,声楽による場合でも,原曲のシャンソンとモテットのどちらの歌詞で歌うのか,或いはヴォカリーズ(母音唱法)もありうるのか,と様々な問題に行き当たり,なかなか厄介である。本日の演奏では,全集版に従いモテットの歌詞で歌うが,スマイエルスによる歌詞付けは全く気紛れなものなので,最善の策とは言い難い。

 さて,ジョスカンの《アヴェ・マリア》と言えば,音楽史の教科書に必ず登場する有名な《アヴェ・マリア》を思い出す向きも多いかと思うが,実はジョスカンには4声の《アヴェ・マリア》がもう一曲ある。余りに有名な同名曲(ただし途中から歌詞は異なる)の陰に隠れて日の目を見ない気の毒な作品であるが,グレゴリオ聖歌の《アヴェ・マリア》に基づいた旋律を模倣によって次々と展開していく様は,まさに“知られざる名曲”と呼ぶにふさわしい。

 同じく聖母マリアを歌った《喜べ,キリストの母処女マリアよ》は,ホモフォニックな様式でクライマックスへと導く手法や言葉の意味の表出という点で完成度の高い作品である。今回は下3声を器楽が担当する。

 一方,世俗作品の中心をなすのはシャンソンである。彼は15世紀のブルゴーニュ宮廷からビュノワ,オケゲムらに受け継がれてきた,歌曲定型に基づく宮廷風恋愛詩の様式を継承したが,時代とともに次第に模倣やリズムの反復を導入した自由な形式を確立していく。もっとも,シャンソンに関しては信憑性の高い資料が少ないことから,シャンソン作曲家としてのジョスカンの成長過程を辿ることはミサ曲やモテットよりさらに難しい。
 初期フランドル楽派を代表するヨハネス・オケゲムの精緻なポリフォニー書法は,ジョスカンをはじめとする次世代の音楽家の作曲技法に多大な影響を与えた。実際,1480年代前半にルイ11世の宮廷でジョスカンがオケゲムに直接師事した可能性はかなり高いと言われている。オケゲムの死に際しては,かの有名なヒューマニスト,エラスムスの他,フランスの詩人ジャン・モリネも哀悼の詩を詠んでいるが,このモリネの詩に曲をつけたのがジョスカンである。この《オケゲムの死を悼む挽歌》ではテノールがグレゴリオ聖歌のレクイエムの旋律を歌い,その他の声部はモリネによる「森のニンフ」というフランス語の詩を歌う。この詩には次代を担うべきジョスカン,ブリューメル,ピルション(ラ・リューの別名),コンペールの名前も読み込まれている。また,この作品の原譜では,悲しみの象徴として音符がすべて黒符で書かれ(この時代は白符による記譜が一般的),しかも定量記号が記されていない。文字通り“はかり知れない”深い悲しみを表しているのだろうか。

 《愛さずにはいられない》は歌詞の内容は古風な宮廷風の恋愛を歌ったものであるが,模倣が展開するポリフォニックな部分とホモフォニックな部分が巧みに絡み合わされ,優雅でメランコリックな表情を醸し出している。
 15世紀後半の世俗音楽の楽譜を見ると,下声部には歌詞が書かれていないケースが多いが,なかには上声部にも書かれず,インチピット(歌い出しの歌詞)のみが記されている場合もある。これは,世俗音楽がしばしば楽器で演奏されたことを裏付けるものである。イタリア語の俗謡に基づく《運命の女神》でも記されているのはタイトルだけである。原題の「フォルトゥーナ」とは,ローマ神話に登場する運命の女神である。9度という珍しい音程関係での模倣が試みられている点が注目される。また,《ジョスカンのファンタジー》のように純粋な器楽曲と思われるタイトルのついた作品もある。いくつかのモチーフが模倣によって展開され,後のリチェルカーレの原形とも言える技巧的な作品である。

 ジョスカンの声楽曲はその多くが同時代,或いは後の世代の人々によって鍵盤楽器やリュートなどの独奏楽器用に編曲された。“インタヴォラトゥーラ(伊intavolatura,英intabulation)”と呼ばれるこの曲種は,特に16世紀に盛んになった。編曲の方法は極めて自由で,原曲の声部数の多いものは1声省略することもあり,装飾もかなり加えられた。インタヴォラトゥーラはポリフォニーの声楽曲を鍵盤楽器やリュートなどの語法に適用していく過程を明らかにしてくれるだけでなく,ムジカ・フィクタの実践法や装飾法など当時の演奏の実態を知るための手がかりとしても非常に重要な資料となっている。ジョスカンの作品のインタヴォラトゥーラは彼の死後60年以上経った1583年にまで及んでいるが,そのことからも彼が死後も長い間尊敬を集めていたことがうかがわれる。因みに,《悲しみの聖母》のインタヴォラトゥーラは,スペイン・オルガン音楽の巨匠カベソンによるものである。

ミサ ロム・アルメについて

 15世紀といえば,前世紀から続いていた百年戦争でフランス国土は荒廃し,無法状態となっていた。こうした状況に終止符を打つべく同世紀半ばには各都市に駐屯兵が置かれ,町単位で市民軍も創設された。「この戦士は恐れられるに違いない。みな鉄の鎧を着けて武装するようにとのお触れがいたるところで出された」という《ロム・アルメ》の歌詞は,鎧を身に纏ったいにしえの兵士の姿を思い起させる。この旋律の起源については,単旋律の大衆歌だったのか,それとも現存しない3声シャンソンのテノールだったのか,未だ結論は出ていない。また,当時の文献には,この旋律がアントワーヌ・ビュノワによって書かれたという記述もある。その真偽はともかくこの旋律が当時広く知られていたことは間違いない。

 《ロム・アルメ》の旋律はデュファイから17世紀のカリッシミに至るまで,現存するだけでも実に30曲以上に及ぶミサ曲の定旋律として使われた。ミサ《ロム・アルメ》は言わば一種の作曲技法の課題のようなものと看做されていたようで,《ロム・アルメ》の旋律を使って優れた作品を書くことが一流の証であった。
 ジョスカンも2曲のミサ《ロム・アルメ》をつくり,1502年ペトルッチが「ミサ曲集第1巻」として出版している。作曲年代がより古いと考えられる「種々の音高によるミサ《ロム・アルメ》」では,大部分で定旋律が長い音価でテノールに置かれ,いわゆる厳格なテノール・ミサの様式をとっているのに対し,「第6旋法によるミサ《ロム・アルメ》」は,定旋律の扱い方が非常に自由である。定旋律を主として受け持つのは,依然としてテノールだが,バスもクリステをはじめ多くのセクションで定旋律を割り当てられ,また,クレドではソプラノが定旋律によるオスティナートを形成する。
 アルトは,サンクトゥス以外で冒頭動機を提示し,模倣を先導する。定旋律から引き出されたモチーフは,いろいろな速度で,しばしば装飾をともなって登場する。また,《ロム・アルメ》の旋律自体が「シンメトリックで明確な構成をもっており,それがポリフォニー作品の基礎としてとりわけカノンを用いるのに適していた」とL.ロクウッドが述べているように,このミサ曲はカノンが非常に頻繁に用いられている。
 サンクトゥスでは,全セクションを通じてカノンが現れるのだが,システィーナ礼拝堂の手稿譜にはサンクトゥス冒頭に「ふたりのセラフィムが互いに呼び交していた」というイザヤ書の言葉が書き込まれている。また,第3アニュス・デイでは,《ロム・アルメ》の旋律の前半と後半が同時に提示される。テノールが後半を順次歌っていくのに対し,バスは前半を最終音から逆行して歌う。曲の中ほどからは,テノールが逆行,バスが順行,とこれまでの反対になる。この長く引き伸ばされた定旋律上に,各々ふたつに分かれたソプラノとアルトが同度カノンを展開する。ジョスカンは,特に後期になるに従い,アニュス・デイに重点を置くようになったが,ここでも6声に広がった響きがクライマックスを形成する。

 ジョスカンがこの作品を書いたと思われる1485年から1500年頃は,異常なほどまでに多くの作品が書かれた時期で,アイデアの豊かさという意味では,この時期の作品が最も創意に満ちたものであるかもしれない。ロクウッドはジョスカンのミサ曲を「同時代のミサ作曲技法の集積」と表現したが,ジョスカンの偉大さは,歌詞を表情豊かに,語るように伝えようとする姿勢が,伝統的な手法と対立することなく見事に調和している点にある。また,ジョスカンはジャンルを問わず,既存の素材を用いて作品をつくることを好んだ。独創性を追求しようとするだけでなく,与えられた小さな素材からいかに大きな作品をつくりだすかという点に最も興味を見い出すということは,ルネサンスという時代の創作に共通して言えることだが,「第6旋法によるミサ《ロム・アルメ》」はこの点においてもジョスカンが卓越した技量の持ち主であったことを示している。

3 コラム/肖像画の謎

(図1)
 有名なこの肖像画(図1)は,ペトルス・オプメールの『世界年代記』(1611)に収められた木版画で,ブリュッセルのサント=ギュデュル大聖堂にあった肖像画を手本にして彫られたものです。
 元の肖像画は残念ながら16世紀に火災で消失してしまいました。
 この木版画が原画をどの程度反映していたのかは今となってはわかりませんが,確実にジョスカンであると判明している当時の絵はこれだけなので,とりあえず私たちはこの妙なターバン姿(?)を巨匠ジョスカンとして崇めるよりほかないのです。
 もっとも,ジョスカンではないかと言われる肖像画は他にもいくつかあります。
 なかでも,かのレオナルド・ダ・ヴィンチ作とされるミラノのアンブロジオ図書館所蔵の絵(図2)のほか,オーヴェルニュで発見されたジャン・ペレアルのスレスコ画(図3)は特に注目されます。
 また,図4は19世紀後半にウデルという人が描いたもので,例の消失した肖像画を復元しようとしたらしく,服装が図1の木版画に似ています。(顔は若干美化されているような気が・・・)
 あなたは,どれが本物のジョスカンだと思いますか?    
 (図2)
 (図3)
 (図4)

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