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第14回公演   C.ジェズアルド 「聖週間のレスポンソリウム集」

【解説:ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 杉村 泉】

 カルロ・ジェズアルド(1561頃〜1613)はナポリ近郊のヴェノーサ公爵の家に生まれた。当時,イタリア各地の都市国家は,優れた音楽家を確保しようと互いに競い合っており,ナポリにも多くの音楽家が集まっていた。ジェズアルドの同時代では,彼の父ファブリツィオのアカデミーに参加していたマックとその弟子マイオーネ,トラバーチなどが,また少し後の世代にはファルコニエーリなどがいる。
 さて,1586年に母方の従姉妹マリア・ダヴァロスと結婚したところから悲劇は始まる。マリアは類まれなる美貌の持ち主で,このとき既に三度目の結婚であった。結婚後間もなく,彼女はアンドリア公ファブリツィオ・カラーファとの不倫に走る。妻の浮気を知ったジェズアルドは,1590年10月,従者に二人を殺害させ,さらに当時生後数ヵ月であった赤ん坊の出生にまで疑いを抱き、子供を殺してしまった。そもそも,マリアの浮気はジェズアルドの父方の叔父の密告から判明したのだが,この叔父も実はマリアに想いを寄せていたという。“16世紀版失楽園”という感のあるこの事件,今ならワイドショーの格好の標的になるところであろうが,当時も相当世間の関心を呼んだらしく,タッソーなど多くの詩人が追悼文集を出版している。世間は概ね殺害された二人に同情的で,事件後ジェズアルドは自分の領地に引きこもり,作曲活動に没頭するようになる。

 ジェズアルドの生涯においては,どうしてもこのスキャンダラスな事件の印象が強くなってしまうのだが,音楽史的観点からみれば,事件後の出来事の方がはるかに重要である。とりわけ,2度目の結婚は彼の音楽に大きな影響を与えたと言えるだろう。1594年,フェッラーラ公アルフォンソ1世の姪レオノーラ・デステと再婚し,フェッラーラでの生活が始まる。フェッラーラのエステ家にはヨーロッパでも指折りの音楽家たち,また詩人・哲学者などあらゆる分野の人々が集まっていたが,彼はここでマドリガーレ作曲家として名高いルッツァスキと懇意になり,大いに刺激を受ける。ナポリからはジェズアルドの他にも数名の音楽家が随行しており,フェッラーラにとっても,ナポリとの接触はひとつの大きな転機であったようだ。彼らの来訪は,ルッツァスキの弟子であった若き日のフレスコバルディにも,ナポリの鍵盤音楽に関心を向けさせるよい機会になったに違いない。2年間の滞在の後,ジェズアルドはヴェノーサ家に戻り,晩年は、鬱病が悪化する中,マドリガーレ集やモテトゥス集など多くの作品を残した。

 6声の《聖週間のレスポンソリウム》は最晩年の1611年にナポリで出版された。この曲集に含まれる27曲のレスポンソリウムは、キリストの受難と埋葬をテクストにもった聖週間の最後の3日間、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の朝課で歌われる。彼の表現的・音画的傾向が最も顕著に現れたマドリガーレに比べると、その表現は幾分控え目ではあるが、ときにはマドリガーレに匹敵するほど、彼の用いたさまざまな手法がふんだんに盛り込まれている。そもそもヴィチェンティーノらによる古代ギリシアのゲノス理論の復興など人文主義的思想に端を発した半音階的手法は,確かに1550年代以降,特にナポリの音楽家たちにとっては常套的な手法になっており、彼独自の語法というわけではない。しかし、大胆な和声と自由自在な転調は、明らかに歌詞の中からアフェット(感情)を引き出そうとする彼の個人的な表現欲求の現われであり、かつてないほどの劇的性格を帯びていた。遠い調性領域へと入り込んでいく巧みな手法,修辞的な着想に基づくモチーフ,緩やかな動きと速い動きの対照性等,何れの要素においても,彼の作品は同時代の他のどの作曲家よりも極端に,また大胆にルネサンス様式の崩壊を促す力をもっていた。
 しかし,ルネサンス的なものを突き崩そうとする激しさを備えていると同時に,あくまでもポリフォニーの枠組みの中にぎりぎりのところで踏みとどまっているという逆説性の故か,彼の技法を受け継ぎ,発展させる者はなく,時代の主役は,マドリガーレ集第5巻で通奏低音付きのマドリガーレを創始したモンテヴェルディへと取って変わったのであった。


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