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第15回公演

Luz de Espana en la Musica
クリストバル・デ・モラレスについて
 
 アンダルシア地方の古都セビーリャ。ビゼーのオペラ『カルメン』の舞台として知られるこの街は、16世紀初頭にはイスラム教徒の残した豊かな文化遺産を受け継ぎ、また主要な内陸港として新大陸からの富が流入し、南スペイン第一の都市として栄えていた。クリストバル・デ・モラレスは、この都市に1500年代初めに生まれた。正確な生年月日や家系は明らかでないが、少年時代には同地の大聖堂の聖歌隊に入り、当時のスペイン一流の音楽家であったペニャローサやエスコバールに音楽を学ぶほか、ラテン語などの古典的な教養を身につけていった。当時のスペインでは、ヨーロッパの他の国と同様に、フランドル出身の音楽家たちが多数活躍しており、若き日のモラレスも彼らの影響を受けたことは容易に想像できる。モラレスはセビーリャでの日々を終生誇りとし、後にローマで出版する2巻のミサ曲集では「セビーリャのクリストバル・モラレス」(Christophorus Morales Hyspalensis - Hispalisはセビーリャの古名)と名乗り、ラテン語の献呈文を自らしたためている。

 1526年、おそらくはまだ20代の若さでモラレスは、スペイン中部の都市アビラの大聖堂楽長の要職につく。アビラ大聖堂の聖歌隊はジョスカン・デ・プレ(c.1440〜1521)などフランドル出身の音楽家たちの複雑かつ大規模なポリフォニー音楽をも演奏できる要員を備えていた。しかし1529年頃には、より高い報酬を求めてプラセンシアの大聖堂に移っている。
 その後1531年からしばらくの空白期間を経て、モラレスは1535年9月1日、ローマ教皇の聖歌隊に採用される。この日は、教皇パウルス3世が芸術家ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の祭壇画制作を命じた日でもあった。モラレスはこの後10年間、歌手(たぶんテノールかバリトン) 兼 作曲家として教皇庁で活躍することになる。同時期の教皇庁聖歌隊には、アルカデルト(c.1500〜1568)やフェスタ(c.1480〜1545)などフランドルやイタリア出身の優れた音楽家たちも所属していた。この10年間がモラレスの音楽活動にとって刺激に満ち、極めて充実した時期であったことは間違いない。

 パウルス3世は華やかな式典を重んじた。たとえば各国君主のローマ訪問の際には大がかりな催しが企画され、聖歌隊の合唱が披露された。教皇はまた、ヨーロッパ各国の和平会談などの折をとらえて精力的に各地を訪問し、その際には聖歌隊の歌手たちも美しい式服に身を包んで同行した。君主たちを前にしての、このような式典はモラレスにとっても自分の作品を演奏する絶好の機会であった。教皇庁での毎日のミサや聖務日課は多く無伴奏の重唱または合唱(ア・カペラ)で行なわれたが、式典の折にはヴァイオリンやトロンボーン奏者などが臨時に採用されることもあった。今回の演奏会はその形式を意図してオルガン他の楽器を、合唱の各声部に随時加えるものである。

 ローマで過ごしたこの時代、モラレスのモテット等の作品は、すでにさまざまなアンソロジーの一部に編まれ、人気を得ていた。その出版は母国スペインをはじめヨーロッパ各国におよび、作曲家や音楽理論家たちの手本として絶賛をうけるばかりでなく、フランスの作家ラブレーの著作にも「私は空想の庭園で、モラレスやその他の優れた音楽家たちが見事に歌うのを聴いた」と言及されるに至った。

 1544年、モラレスは自分のミサ曲をまとめ、ローマで2冊の曲集として出版した。本日演奏する「ミサ《ミル・ルグレ》」と「レクイエム」は各々、この1巻と2巻に収められている。1巻はフィレンツェ大公コジモ・デ・メディチに、2巻は教皇パウルス3世に献呈された。

 「レクイエム」の作曲目的や初演の機会は確かでないが、その堂々としたたたずまいは、相当に高位の人物の葬儀を念頭に置いていたことをうかがわせる。曲はグレゴリオ聖歌を骨格(定旋律)に据え、途中で3声や4声に声部を減らし、変化をつけながら展開される。また途中のセクエンツィア(続唱)「怒りの日」は、最終節の「慈悲深きイエスよ」のみがポリフォニーで作曲されている。全曲は最後の「絶えざる光を照らしたまえ」に向かって、魂が死後の栄光に導かれるさまを確信するように進んで行く。

 「ミサ《ミル・ルグレ》」は、ジョスカン・デ・プレのフランス語によるシャンソン《千々の悲しみ》を基にしている。この曲は別れの悲しみを歌った4声の世俗曲で、当時のヨーロッパ全土で流行した。また時の神聖ローマ皇帝 兼 スペイン国王カルロス5世のお気に入りの曲であり、スペインの作曲家ルイス・デ・ナルバエス (c. 1500〜c.1550) は、《皇帝の歌》と題してビウエラ(ギターに似た楽器)のための編曲を書き残している。モラレスもミサ曲の作曲にあたっては、この皇帝を大いに意識したものであろう。ミサ曲は原曲の最上声部の旋律をソプラノ声部に借用し、それに残りの5声部がポリフォニックに絡み合いながらミサ通常文の歌詞を歌ってゆく「パロディ・ミサ」の形式をとっている。

 本日は、同じ時代にスペインで生まれ、王家に仕えた作曲家アントニオ・デ・カベソン(1510〜1566)の器楽作品も合わせて演奏する。カベソンは裕福な地主の家に生まれ、幼い頃に病気で視力を失ったが、オルガン演奏と作曲に天才的な腕前を示し、カルロス5世の妃イサベラや国王フェリペ2世などの宮廷で重用された。彼の息子エルナンド(1541〜1602)も優れた音楽家として宮廷に仕えたほか、父の残した作品をまとめて出版する役を果たしている。プログラム前半では対位法による模倣を駆使した器楽曲「ティエント」が、後半ではカベソンが他の作曲家の世俗曲に変奏を施した作品が演奏される。

 カベソンが終生スペイン王家に重んじられたのとは逆に、モラレスの後半生は恵まれていたとは言い難い。ミサ曲集の献呈先コジモ大公は恋愛を歌ったマドリガーレを好み、モラレスの重厚・荘厳な作風には興味を示さなかった。また教皇からも思うほどの引き立てを得ることのできなかったモラレスは、故国に帰る決意をする。1545年3月、彼はトレドの大聖堂楽長に就任する。ここをわずか2年で去った後、アルコス公爵家に3年、マラガの大聖堂に3年奉職したが、同時代の理論家ホアン・ベルムードに「音楽におけるスペインの光」とまで称えられた国際的名声に比べて、モラレスの現実の生活は報いられるところが少なかった。1553年、再びトレド大聖堂に戻ろうと考えながら果たせぬまま、モラレスはこの世を去った。

 モラレスの死後、その作品は19世紀に至るまでヨーロッパ各地で出版され続けた。16〜7世紀のスペインやイタリアの作曲家たちは彼の作品を熱心に研究し手本とした。さらに当時、宗教改革の気運が高まりつつあったドイツでも主義主張の違いを超えて受け入れられたばかりでなく、大西洋を渡った南米にも伝えられ、1559年にカルロス5世の追悼のためにメキシコシティで行なわれた集会でも歌われた。天正少年使節団がスペインを訪問した折の歓迎の音楽や、カトリックの宣教師たちが日本のセミナリオに携えてきた楽譜の中にも、もしかするとモラレスの作品は含まれていたのではないだろうか。
(N.A.)

《コラム》
 16世紀の初めに教会に仕えたモラレスのような音楽家は、どのような生活を送っていたのでしょうか...?

 教皇庁聖歌隊の歌手募集には、(1)各地の教会に求人広告を出す (2)ローマからスカウトマンを派遣するの2つの方法がありました。選考の基準は声の質を第一に、自分の声部をきちんと歌えるか、初見能力はあるか、グレゴリオ聖歌を歌いこなせるか...等の数項目で、先輩の聖歌隊員が居並ぶ前で試験が行なわれました。

 この時代の教皇庁聖歌隊のメンバーは24名、フランス(含・フランドル)・イタリア・スペインの出身者で ほぼ3等分されていました。歌手たちは出身国別のグループに分かれ、教皇庁でのミサや聖務日課での歌唱の他、ローマにある各国の守護聖人の教会(たとえばスペイン人グループは聖ヤコブ教会)での務めもありました。

 教皇パウルス3世は歌手たちを手厚く遇しました。聖歌隊メンバーには月々の給金のほか、住居と召使いが与えられ、教皇に随行する折には馬に乗ることが許されました。今ならさしずめ、「社宅・お手伝いさん・公用車つき」です。さらに勤続5年ごとに数ヵ月の長期休暇が与えられました。その代わり、歌手たちの勤務状況はメンバーの一人によってこと細かに日誌に記録され監視されました。それによるとスペイン人歌手たちは結構気が荒く、教会内で口汚く罵り合っては罰金を取られたりしていたらしいのです。我らがモラレスはといえば、人前で声を荒げるようなことはなかったものの、いささか身体が弱かったようです。あるアメリカの音楽学者が先の日誌を調べたところでは、モラレスの名前の登場回数は10年間に441回、うち339回は「朝課の務めに遅刻または欠席した」という理由によるものです。もっとも彼は慢性の病気(一説にはマラリア ... 周期的に高熱が出る病気)を抱えていて、65回は明らかな病欠だったようですから、勤労意欲(Moralesモラル?)の問題ではなかったのでしょう。

 自ら望んでスペインに戻ったモラレスですが、トレド大聖堂での生活は予想外の厳しさだったようです。演奏や指揮に加えて、聖歌隊のライブラリを充実させる仕事のほか、常に十数人の少年聖歌隊員たちを自分の家に寄宿させ、面倒を見、スペイン語とラテン語以外の教科を教えなければなりませんでした。モラレスは実務能力のほうは弱かったらしく、この務めを果たすために、たちまち借金生活に陥ってしまいました。その上、歌手たちは彼に馴染まず、オルガニストに直接指図することさえできなかったのです。モラレスが晩年、トレド→アルコス公爵家→マラガと転職を繰り返したのも、ローマ時代に勝ち得た名声と現実の生活との間にギャップを感じていたからではないでしょうか。  (新井紀子)

(以上、解説とコラムはRobert Stevenson: Spanish Cathedral Music in the Golden Age (1961年、Univ. of California Press)他を参考にしました)


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