【解説:ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 新井紀子】
Sotto il Lione d'oro モンテヴェルディ『倫理的・宗教的な森』 1612年初頭、イタリア中部の都市マントヴァを統治していた公爵ヴィンチェンツォ・ゴンザーガが没した。後継者フランチェスコ公はこれを機に、宮廷の余剰人員整理に取りかかった。このリストラは宮廷楽団にも及び、なんと楽長クラウディオ・モンテヴェルディ(1567〜1643)までもが、弟のジュリオ・チェーザレ(やはり作曲家)ともども、突如として解雇の憂き目に遭った。これまでも財政危機など色々な問題や意見の衝突を経つつ、22年間何とか勤めた宮廷ではあったが、いきなりの解雇で今後の勤め先の見通しもつかず、もちろん年金の払いなど当てにはならない。5年前に先立った妻が残した息子ふたりを抱えて、45歳のモンテヴェルディは故郷クレモナに一時帰省し、そこで次の機会を待つことになった。 機会は偶然にも、比較的早く訪れた。翌1613年7月、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂楽長マルティネンゴが没し、その後任へと招かれたのである。サン・マルコ聖堂が評価したのは1610年出版の『6声のミサおよび聖母のための夕べの祈り』(ヴォーチェでは第9・10・13回演奏会)でモンテヴェルディが宗教音楽に見せた手腕であった。サン・マルコ聖堂では、こんにち有名な『夕べの祈り』よりも、伝統的様式に則った無伴奏合唱の『6声のミサ』を高く買っていたとされるが、当時のサン・マルコ聖堂は、ヴェネツィア総督(ドージェ)の私的礼拝堂として、ローマ・ヴァチカンの教皇庁から比較的自由な立場にあった。そこで行なわれるミサや定時の祈りは1時間以上にも及ぶ大がかりなもので、ここでの音楽演奏を目当てに聖堂を訪れる人々も多かった。ヴェネツィアは共和国の威信にかけても優れた音楽家を招く必要があった。その目にかなったのがモンテヴェルディだったのである。 サン・マルコ聖堂礼拝堂楽団長としてのモンテヴェルディに期待されたのは、まず楽団の歌手・器楽奏者の補強、そして教会での種々の典礼のための作品を書くことであった。モンテヴェルディは作曲にあたってポリフォニー・対位法・無伴奏合唱による、調和を重んじた伝統的なスタイルを「第一の作法」とし、一方、歌詞の内容の劇的な表出のために不協和音や半音階進行の大胆な使用もためらわない、通奏低音付きの技巧的な歌唱によるスタイルを「第二の作法」と呼び、それらをマドリガーレなど主として世俗曲の分野で培ってきた。そしてサン・マルコ聖堂での宗教音楽の創作にあたっては、この両方を時と場合に応じて巧みに使い分け、曲によっては両者を混在させるという職人芸を披露していくこととなる。 ヴェネツィアでのモンテヴェルディは、礼拝堂楽団長として年間の主な宗教的祝日のためにミサ曲やモテットの提供を始めた。イエス・キリストや聖母マリアの生涯にちなむものの他、主要な聖人の祝日、司祭の就任式、さらに外国からの客人のレセプションやヴェネツィア独特の「都市と海との結婚の儀式」など、年間に作曲しなければならない機会の数は相当にのぼった。この第一の任務の他に、ヴェネツィアの諸教会や音楽院からの作曲依頼を受けたり、イタリア各都市国家の君主や有力貴族の結婚等の機会に祝祭の音楽を委嘱されるなど、超・多忙の日々が続いた。 今回の演奏会で取り上げる『倫理的・宗教的な森』は1641年、晩年のモンテヴェルディが過去30年近くのヴェネツィアでの宗教作品の中から、ラテン語によるミサ曲・詩編曲、イタリア語の歌詞による宗教的マドリガーレなど40曲をまとめた曲集である(注:ミサ曲は全体で1曲と数え、その一部と差し替え可能な楽章も各々1曲と数えた数字)。「森 (selva)」という表現は、自作選集を表わすために、この時代の他の作曲家も用いたものである。時すでに70歳を超えていたモンテヴェルディは、ヴェネツィアでの自らの創作活動に一つの区切りを設けようとしたのであろうか。 しかし、彼の創作意欲はこの後も衰えなかった。この頃ヴェネツィアに出来はじめた公開の劇場のために、1641年にはギリシャ神話の英雄伝説による『ウリッセ(ユリシーズ)の帰郷』、翌42年には古代ローマの暴君ネロ帝を取り巻く人々の愛欲と謀略のドラマ『ポッペアの戴冠』をオペラ化する。その後、故郷クレモナと長年の任地マントヴァを訪問した後、1643年11月29日、ヴェネツィアにて76年の生涯を終えた。翌日、弟子のロヴェッタとマリノーニが指揮してサン・マルコ聖堂とサンタ・マリア・ディ・フラーリ聖堂で行なわれた葬儀には、ヴェネツィア市民がこぞって参加し、巨匠の死を悼んだ。モンテヴェルディは現在もヴェネツィアのほぼ中心にあるフラーリ聖堂に眠っている。 その後、1641年の曲集に収まり切らなかった宗教曲を集めた『コンチェルト様式によるミサと詩編集』が1650年に、世俗曲の分野では『マドリガーレ集第9巻』が死後出版された。この他に各種のアンソロジーに収められた曲も残っている。また特に祝祭のための機会音楽には散逸してしまったものも数多い。 |
●今回の演奏会にあたって 『倫理的・宗教的な森』は先述したとおり、ヴェネツィアでの様々な礼拝や宗教行事のために作られた、各種の曲の大部な集合体である。これを一つの演奏会に収めるために、今回わたしたちは、「洗礼者聖ヨハネの夕べの祈り」という枠組みを借りることにした。 洗礼者聖ヨハネとは、聖母マリアの親類エリザベトを母として、イエス・キリストにおよそ6か月ほど先立って生まれた。その後、荒野で修行を積んで人々に救世主の到来を予言し、キリストに洗礼を授けたとされる人物である。カトリック教会の様々な行事のうち、その誕生日が祝われるのは、キリストと聖母マリア、そして洗礼者聖ヨハネのみであり、キリストに先立つ人物としてヨハネが非常に重視されていることが分かる。 招詞と応唱(ヴェルスィクルスとレスポンソリウム) 交唱(アンティフォナ)I−詩編(プサルモディア)−交唱I 交唱 II−詩編−交唱 II 交唱 III−詩編−交唱 III 交唱 IV−詩編−交唱 IV 交唱 V−詩編−交唱 V 小句(カピトゥルム)→応唱(レスポンソリウム)→賛歌(イムヌス) 交唱 VI−マニフィカト(聖母マリアの カンティクム)−交唱 VI このうち詩編5曲は旧約聖書からとられ、日によって変わる。また交唱と賛歌は、その日に記念される聖人の生涯にちなむ詞による短い歌、「マニフィカト」は新約聖書に述べられている、聖母マリア自らが神を讃えて歌ったとされる言葉である。 ここで、交唱に代えて演奏される器楽曲の作曲者たちをご紹介する。 |
●モンテヴェルディの各楽曲について (詩編の番号はラテン語の聖書「ウルガタ版」による) 1. 詩編109番「主は言われた」 モンテヴェルディは1641年と1650年の曲集に、合わせて4曲の「主は言われた」を残しているが、今回は1650年版の1曲目を演奏する。キリスト教では、この詩編はイエス・キリストが神のひとり子であり、永遠の大司祭であることを確認するものとして、晩課の冒頭でしばしば歌われる。モンテヴェルディはこのために4声部ずつの2重合唱とソリストたち、それぞれの掛け合いによる壮大な音楽を準備した。ときおり「定旋律」の形で元のグレゴリオ聖歌が顔をみせるのが印象的である。 2. 詩編110番「われ主に感謝せん」 1641年の曲集に3曲含まれる同名の曲の最後のもの。「フランス風(alla francese)」と記されている。ここでモンテヴェルディが「アラ・フランチェーゼ」と称したのは、16世紀の後半にフランスで盛んになった「ヴェル・ムジュレ(vers mesur市)」というスタイルの詩と、それに付された音楽の影響を反映しているものと思われる。ヴェル・ムジュレとは、古典ギリシア・ラテン文学の詩の形式(長−短音節の組み合わせによる)にならい、それをフランス語の音節のアクセントの有無におきかえて詩句を書こうという試みである。この作法に則り、恋愛などが歌われ、また聖書の詩編の仏語訳も行なわれた。このような詩に音楽を付すと、アクセントのある音節に長い音符、ない音節に短い音符が来て、音楽は2拍子系と3拍子系のあいだを自由にゆれ動く。また、多声部によるホモフォニックな音の響きが特徴であるが、時には曲中で声部を増やしたり減らしたりして変化がつけられた。モンテヴェルディはマントヴァ公ヴィンチェンツォに従ってのベルギー旅行(1599年)の折、この形式によるル・ジュヌ(1528/30〜1600)やデュ・コーロワ(1549〜1609)らのシャンソンや詩編曲に触れ、その影響を受けたと考えられている。 3. 詩編111番「主を畏れるものは幸いなり」 1641年と1650年の曲集に残る3曲のうち、1641年版の2曲目である。冒頭でテノールが歌う「主を畏れるものは幸いなり」というフレーズが曲中で計5回繰り返され、全編をつらぬく主題となっている。曲全体は伝統的な対位法によるポリフォニーを遵守している(このような形式を「厳格様式(スティレ・オッセルヴァート)」と呼ぶ)が、途中「憤る」という言葉にあてられた16分音符を含む音型は、『マドリガーレ集第8巻』(1638年)で戦いや怒りを描写するものとしてモンテヴェルディが自ら提唱した「興奮様式(スティレ・コンチタート)」を想起させる。また「歯ぎしりする」の部分の付点音符は、音型で情景を描く「マドリガリズム」の影響を感じさせる。 4. 詩編112番「主を讃めたたえよ、しもべたちよ」 この詩編にも3曲が残っているが、今回は1650年版を演奏する。前の曲と同じく厳格なポリフォニーによるもので、半音階の使用や音画的な描写が避けられているため、全体に清澄な印象を与える。こうした曲は、モンテヴェルディがジョスカン・デ・プレ(1440ごろ〜1521)にさかのぼるフランドル楽派の流れに連なる作曲家であることを思い起こさせる。 5. 詩編116番「もろもろの国よ、主を讃めたたえよ」 この詩編にも、1641年の曲集に3曲、1650年に1曲が残されている。今回演奏するのは1641年版の第1曲目であるが、曲頭に「5声−これら5声は2挺のヴァイオリン、およびヴィオルまたはトロンボーンによる4声体と協奏する」と指定され、しかも「4声体は、どうしても都合できない時は省略可能」とも書かれている。この記述からも分かるとおり、声楽ソリストと旋律楽器2本の競演が主な聴きどころである。なお、今回は「4声体」の入る部分に合唱を当てはめているが、このように独唱・独奏・合唱・合奏が自由に掛け合い対話する形式を、モンテヴェルディは「協奏様式(スティレ・コンチェルタート)」と呼んだ。 6. 賛歌「のびやかなる歌声もて」 二人のソプラノと2本のコルネットによる協奏様式の楽曲。洗礼者聖ヨハネの祝日の晩課に特有の歌詞によるが、モンテヴェルディは全5節のうち、奇数節にのみ作曲している。また、同じ旋律で "Iste Confessor" という、別の祝日の賛歌も歌うことができる。"Ut queant laxis" という歌詞で始まるグレゴリオ聖歌は、第1節の各行の始めが1音ずつ上がってゆき、ここから "Ut (do)、re、mi ..." という音名が決まったというエピソードをもつが、モンテヴェルディは同じ歌詞に、伝統にとらわれない新しい風を吹き込んでいる。 7. マニフィカト 1641年の曲集に2曲含まれる「マニフィカト」のうち、第1番を演奏する。新訳聖書「ルカによる福音書」から取られたかなり長い歌詞で、夕べの祈りの終わりに必ず歌われるため、15世紀以降、近・現代に至るまで多数の作曲家が名作を残している。1641年の第2番が4声と通奏低音による伝統的様式であるのに対し、モンテヴェルディはこの第1番に、あらゆる作曲技法を注ぎ込み、各節ごとに新しい趣向で聴く人に(そして演奏者に)新鮮な感動を与えてくれるのである。 |
参考文献 《全集版楽譜》 《日本語で読める文献》 《モンテヴェルディと、同時代の作曲家たちについて》 《モンテヴェルディと、ル・ジュヌ他フランス音楽との関連》 《グレゴリオ聖歌(アンティフォナ他)出典》 |
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