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第18回公演  ジョスカン・デプレ ミサ 「パンジェ・リングァ」

(解説:ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 杉村 泉)

1 ジョスカン・デプレ/Josquin Desprezの生涯

ジョスカン肖像 ジョスカン・デ・プレ(c.1440-1521)は、現在の北フランス、ピカルディ地方に生まれた。同時代の多くの音楽家たちと同様、彼はアルプスを越えてイタリアへ向かった。恐らく1450年代後半にはミラノの大聖堂聖歌隊歌手となっていたと思われる。
 70年代には、同じミラノでスフォルツァ家に仕えることとなり、宮廷礼拝堂のメンバーとして活躍した。君主アスカニオ・スフォルツァに随行して向かったローマの地では、教皇庁礼拝堂歌手の地位にも就いている。また、1503年から一年間は、フェッラーラの宮廷楽長を務めるなど、延べ30年をイタリアの地で過ごした。その間は、フランスにもたびたび赴いている。
 晩年にはフランドルに戻り、コンデ・シュール・レスコーの町で司祭を務めた。ジョスカンたち「オルトレモンターニ」(イタリア語で山の彼方から来た人の意)と呼ばれたフランドルの作曲家がイタリアの音楽文化に多大な足跡を残したことは言うまでもないが、逆にこのような活発な移動は彼ら自身の音楽にも少なからぬ影響を与えたようだ。ジョスカンが教会音楽、フランス語やイタリア語による世俗曲など幅広いジャンルの作品を残しているのには、こうした彼の多彩な経歴が背景にあるのである。
 ジョスカンは既に同時代の人々からも偉大な作曲家として認められていたようだ。かのマルティン・ルターは、「彼(ジョスカン)は音符を意のままにするが、他の作曲家たちは音符の意のままにされる」と賛辞を送った。
 死後の1530年代にもかなりの作品がヨーロッパ各地で出版されている。10年、20年前の音楽を演奏するということ自体が稀であった当時の状況を考えると、これは実に驚くべきことだと言える。

 生涯最後のミサ曲となった《ミサ・パンジェ・リングァ》Missa Pange linguaが書かれたのは、1514年もしくはその直後のことだろうと考えられている。20曲あるジョスカンのミサ曲は、その大多数が印刷業者ペトルッチによって出版されているが、この曲に限っては、出版譜が現れるのはジョスカンの死後、1539年になってからのことで、手書きの筆写譜が出版譜に先行している唯一の例でもある。
 ミサ曲の基になっているグレゴリオ聖歌《パンジェ・リングァ》は、聖霊降臨後の木曜日にあたるキリストの聖体の祝日に、晩課のなかで歌われるイムヌス(賛歌)である。聖体拝領を祝うこの祝日の起源は13世紀半ばにまで遡ることができる。因みに、2002年の教会暦では、聖体の祝日は5月30日である。(もっとも、日本国内では聖霊降臨後第二主日に祝われるため、今年は6月2日)聖歌は全6節からなっているが、本日はその中から第1,5,6節を抜粋して演奏する。

 キリエからアニュス・デイまでの各章は、いずれも冒頭に聖歌の旋律が引用されている。しかし、このように聖歌の旋律が明確に聞こえてくるのは、6フレーズから成る旋律をほぼ全部パラフレーズしたキリエとソプラノ声部に引き伸ばされた定旋律として提示される第3アニュス・デイだけで、グロリア、クレド、サンクトゥスでは、楽章の冒頭以外は、時々断片的に現れるだけである。
 いずれの楽章も主体となるのは2〜3声の対位法で、ポイントとなる箇所では4声が揃ってしばしばホモフォニックな動きをする。シラビックに作られたグロリアやクレドは、ひとつひとつの言葉から引き出されたイマジネーションがそのまま音となって現れてくるようで、これが晩年の作品であるとは思えないほどの新鮮さに溢れている。

 音楽史の教科書にも必ず登場する有名な《アヴェ・マリア》Ave Mariaは、作曲された動機ははっきりしないが、おそらく1497年頃作曲されたと考えられている。最初の2行は聖歌から取られたものであるが、続いて、懐妊、生誕、お告げ、清め、被昇天、とマリアの生涯の5つの出来事が繊細に描かれていき、最後に祈りの言葉で締めくくられる。
 マリア信仰においては、「7」という数字が重要視されていたが、ここでも歌詞は7つの段落から成っている。ふたつの声部の対話を中心に展開してゆくこのモテットは、ポリフォニックな部分とホモフォニックな部分が巧みに織り交ぜられ、またシンプルな言葉と音楽の結びつきのゆえに静謐で神秘的なな雰囲気を醸し出している。

 主に中期以降に書かれた5声以上の多声モテットには、様々な技法を凝らしたものが多い。特に顕著なのが、定旋律cantus firmusを中心に構築された作品である。《スターバト・マーテル》Stabat materでは、ジル・バンショワのロンドー《落胆した女のように》Comme femme desconforteeの旋律が、元の音価の3倍に引き伸ばされ、テノールで歌われる。この定旋律には切れ目がなく、またオリジナル譜には冒頭にComme femmeという原曲タイトルしか記されていないことから、このパートは何らかの楽器で演奏されたという説もある。長く引き伸ばされた音符に限らず、人数の足りないパートや補強したいパートを楽器で演奏することは珍しいことではなかった。本日の演奏でも、声楽と器楽を重ねて演奏する。

 似たような系統に属する多声モテットのひとつが、マリアを称えたセクエンツィア《変わらぬ心の》Inviolata, integra et casta esである。ここでは原曲のグレゴリオ聖歌の旋律がアルト・テノールの内声2声でカノンになっている。このように定旋律をカノンとして提示するやり方は、ジョスカンの得意とする手法で、多声モテットではしばしば使われている。カノンは、テノールが先行するが、後から入ってくるアルトとの間隔が、第1部ではブレヴィス(現代風に言えば、倍全音符)3個分、第2部ではブレヴィス2個分、第3部ではブレヴィス1個分と徐々に短くなってくる。とはいえ、カノンは作品の構造の中に溶け込んでしまっていて全面に出ることはない。むしろ、主役は、メリスマがふんだんに用いられた残りの3パートである。

 100曲余りのモテットのうち、約4分の1が詩編をテクストとしている。4声の《深き淵より》De profundisもそのひとつで、晩年の精緻な書法が見られる。特に、言葉と音楽は一層親密なものとなり、シンプルながら表現力の点でも際立った作品となっている。後述の《森のニンフよ》Nimphes des boisや有名なシャンソン《千々の悲しみ》Mille regretz等と同じく、Eを終止音とする旋法で書かれており、悲しみを表す旋法が意識的に用いられたのかもしれない。

 ジョスカンは、同時代の他の作曲家たちと同様、シャンソンなどの世俗作品においてもずば抜けた手腕を発揮した。ブルゴーニュ・シャンソンの特徴であった歌曲定型から脱却し、代わってモテットと同じように模倣を主体とした作品を多く書いている。《愛さずにはいられない》Je ne me puis tenir d'aimerでは、模倣とホモフォニックな部分が実にバランス良く配され、フランス語の歌詞の持つ律動感が見事に活かされている。また、シャンソンにおいては、通俗的な単旋律の歌曲をポリフォニーにアレンジするということもしばしば行われた。《あの人をなくしたら》Si j'ay perdu mon amy もそうした曲のひとつである。今回はソプラノとテノール以外は器楽が担当する。

 ジョスカンの作品を考えるとき、忘れてならないのがヨハンネス・オケゲムの影響である。ジョスカンとオケゲムの直接のつながりを明確に物語る証拠は見つかっていないが、ルイ11世の宮廷で、二人が同僚として活動した可能性はきわめて高いと考えられている。1497年オケゲムが亡くなったとき、ブルゴーニュの宮廷詩人ジャン・モリネ(1435-1507)が詠んだ追悼詩に曲をつけたのがジョスカンであった。《森のニンフよ(オケゲムの死を悼む挽歌)》Nimphes des bois ( La deprolation de Johannes Ockeghem )は5声の作品であるが、2つの異なる歌詞をもつ作品で、テノールだけはラテン語レクイエムの旋律を歌う。今回の演奏では、歌詞付きの資料として最も古い1518年のメディチ写本を使用したが、悲しみを象徴するものとして音符がすべて黒符で書かれている(当時は白符による記譜が一般的であった)。
 また、クレフ(音部記号)が記されていないこと(オケゲムのモテットにもクレフなしの作品がある)、テノールのレクイエムの旋律が記譜より半音低く歌う必要があること(オケゲムの《レクイエム》も同様の記譜法)等、オケゲムを偲ぶための様々なツールが随所に施されている。第2部のクライマックスには、オケゲムの次の世代を担う作曲家として、ピルション(ラ・リューの別名)、ブリューメル、コンペールと共に、ジョスカンの名も読み込まれている。

 ジョスカンは、ミサ曲・モテット・シャンソン・フロットラ・器楽曲など、あらゆる分野において才能を開花させた。Gustave Reeseは、ジョスカンの音楽を“グレゴリオ聖歌上のファンタジーa fantasy on a plainsong”と評した。確かに、ジョスカンほど多彩な方法で聖歌や俗謡の旋律を定旋律として“料理”した作曲家はいないと言っても過言ではない。しかし、用いられた旋律は作品の構成原理として機能しているというよりもむしろ、多くの場合新しいモチーフ創造への拠り所となっているに過ぎない。ジョスカンのイマジネーションは、それらの旋律をいかにして創造的でインスピレーションに満ちたモチーフへと創り上げていくかという点に注がれた。そうした面において、疑いなくルネサンス最高のパフォーマンスを発揮したジョスカンのモチーフひとつひとつは、ポリフォニーの中で絶妙なバランスを保って現れ、聴き手を飽きさせることがないのである。

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