曲目解説 Programme Notes |
本日の曲目について |
濱田滋郎 |
本日は、マテオ・フレチャ作の「エンサラーダ」を中心に、ルネサンス期のスペイン音楽を味わい、楽しんで頂く。 「エンサラーダ」とは、スペイン語で“サラダ”のこと。すなわちこれは、歌詞の面ではスペイン(カスティーリャ)語のほかカタルーニャ語、ラテン語、イタリア語、フランス語などの詩句を任意に混ぜ合わせ、音楽の面では当時のよく知られた民謡、俗謡ほか既成の旋律を、作曲者みずからのそれと自由に入り組ませた、“音楽のサラダ”にほかならなかった。言うまでもなくこれは、ルネサンス・スペイン音楽の機知と才気にあふれる側面を代表する、楽しさ一杯の演目であった。 「エンサラーダ」の芽生えは15世紀にも認められるが、これが人気高い形式としてスペインに定着したのは16世紀の前半、そしてその立役者がマテオ・フレチャ(1481?−1553)であった。カタルーニャ(東北スペイン)地方タラゴーナ県下に生まれた彼は、レリダ市の大聖堂で歌手および聖歌隊長(1520年代)をつとめたのち、バレンシア(東スペイン)のカラブリア公爵家に招かれた。ここの宮廷で、彼が、16世紀スペイン多声世俗歌曲のすぐれたアンソロジー、こんにちの通称「ウプサラの歌曲集」(スウェーデン、ウプサラ市の図書館から“発見”されたためこう呼ばれる)の編纂に当たったことは、確実視されている。その後、フレチャは、スペイン王家の姫たちに所属する聖歌隊長の長にも選ばれ(1540年代)、70余歳で他界している。 フレチャのポリフォニー作曲術は高いものがあり、おそらく、後世に残らなかった秀作も多かったと考えられる。「ウプサラの歌曲集」に含まれたその作品、「テレシーカねえさん」「哀れなジョアンをどうしよう」などから、また、本日のプログラムに3篇が聴かれる「エンサラーダ」からも、フレチャがとりわけ軽妙でユーモアに富んだ楽曲に抜群の才能を発揮したことは間違いない。 ところで、マテオ・フレチャの名を後世に残した傑作「エンサラーダ」の数々は、けっして、彼の生前に出版されたものではない。彼が没して30年近くにもなる1581年、意外なことにスペインから遠く離れたプラハの地でこれらの出版に漕ぎつけたのは、彼とまったく同じ名を持ち、同じようにすぐれた楽才に恵まれた甥であった。同名なので両者を混同せぬよう、後世の人は「エンサラーダ」の作者を“老(el Viejo)”マテオ・フレチャ、曲集を出版した甥のほうを“若(el Joven)”〜として区別している。この甥は1530年、伯父と同じくタラゴーナ県下に生まれ、13歳の時から、疑いなく伯父の引き立てにより、スペイン王家に仕える歌手の一人となった。伯父が隊長をつとめるスペイン王女たちの聖歌隊にも加わっている。1568年からは、スペイン王女のひとりが輿入れしたオーストリア皇帝マクシミリアンU世のもとへ随行し、同じ68年に、1巻の「マドリガーレ集」をまとめてヴェネツィアの出版社から世に送ってもいる。 そのように、自身、一家をなした作曲家でもあった甥マテオが、家系の誇りであり、自分の恩師でもあった“老”フレチャのため、労を惜しまず実現したのが、「エンサラーダ集」の出版だったわけである。その前書きには「伯父マテオのエンサラーダ集は(人気作だけに)従来しばしば筆写され世に出回ってきたが、それらの譜面には誤りも多いので、自分が正しい版を残さねばと考えた」と記されている。また、「プラハにはスペイン語を解する者がいないので、私自身が印刷所に出向き、校正を見た」とも述べているが、それほどまでして外国で出版した理由は、結局、スペインにおける出版事情の困難であったらしい。 甥マテオが編んだ「エンサラーダ集」には、伯父の手になる10篇のほか、彼自身の作、P・A・ピラ、カルセレス、チャコンといった諸家の作も少しずつ含まれている。“老”マテオのエンサラーダはおおむね当時の典型であった4声に書かれ、終始、生きいきとして楽しい。演奏にあたって歌い手たちが演劇ふうの身振りや表情をしたり、別の役者が歌につれてパントマイムを行ったり、ということも、記録に残されてはいないが、充分にあり得たことと推察される。 本日演奏される他の曲目については記すスペースが乏しくなってしまったが、あたかも「エンサラーダ」の世俗的な賑わいを鎮めるかのように挿入される宗教歌曲の作者、フランシスコ・ゲレーロ(1527−99)は、C・デ・モラレスとT・L・デ・ビクトリアとのあいだをつなぐ、ルネサンス・スペイン宗教楽派の大家である。南スペイン、アンダルシアの人であったゲレーロの作風は、おおむね優しさと豊かな情感に満ち、彼が「聖母マリアの歌い手」あるいは「音楽のムリーリョ」と呼ばれたことも当然、とうなずかせる。 |