このページでは、ヴォーチェメンバーがエンサラーダスに向けて行った、各種リサーチ結果をお届けします。
テーマ | 執 筆 |
スペイン語の歴史的発音について | 永井保成 |
コラム:神様マリア様ご聖人様 | 新井紀子 |
ルシファーはなぜ妬む?? | 今井瑛里子 |
コラム:敗戦のルシファー、悪魔の仲間を語る | 新井紀子 |
今回の作曲家の紹介 |
そもそも「エンサラーダス」とは? |
エンサラーダスとは、スペイン語で「サラダ」の意で、作曲家が自らの作曲部分に当時の俗謡、外国のヒットソングの一部、宗教曲風の部分など、各種の素材をまさにサラダのように取り混ぜた作品です。 この形式は別の名称でフランスやドイツでも長く親しまれましたが、今回はカタルーニャ生まれのマテオ・フレチャ(1481?-1553)の作品集から3曲選びました。 |
テーマ |
解 説 |
スペイン語の歴史的発音について |
私たちが今回演奏するのは16世紀スペインの音楽であり、歌詞がラテン語の宗教曲を除いては、すべてのテクストはいわゆる「スペイン語」で書かれている。 「スペイン語」と一言でいってしまえばいかにも簡単ではあるが、残念ながら事情はそれほど単純ではない。まず、スペインの人々は地方によって異なる言語を持っており、我々が一般にスペイン語と呼ぶところのカスティーリア語の他に、カタルーニア語、ガリシア語、バスク語などがあり、(バスク語を除いては)それぞれが互いに似通ってはいるものの、文法体系や語彙、発音などの異なる独立した言語である。この問題に関しては,今回演奏する曲目のテクストは幸いにしてすべてカスティーリア語とみなすことができる。 地方による差以外に問題を複雑にしているのは,400年近い時間によって生じる差であり,同じカスティーリア語ではあっても、400年前では発音や文法体系が現代のそれとは違ってしまっている。発音については、400年前にタイムスリップして調べて来た人がいるわけではないので確実なことは分らないのだが、カスティーリア語のしくみについて記述した数少ない当時の書物の他に、現代語におけるロマンス語(フランス語やスペイン語のなかま)の系統的な比較や、つづり字の地域的時間的変化を音声学的に分析することでおおよそ推定することができるらしい。 それによれば、たとえば、つづり字 J は現代ではハ行の音であり、Jose はホセと読まれるが、16世紀頃の発音ではジョセになってしまう。他にも「ありがとう」を意味するgracias は現代ではグラシアスと読むが、歴史的発音ではイタリア語のように「グラチアス」となる。実際、この時代の世俗曲はしばしばこのような歴史的発音を用いて演奏されるようである。 しかし、ここで注目したいのは、発音上の今昔の差異ではなくむしろ類似である。実際、上に挙げたようないくつかの例外を除いてはカスティーリア語の発音は400年前も今も同じ規則に則っているし、現代文法では解釈できないような古カスティーリア語の構文も他の近隣諸語の現代文法の知識などから十分推定可能な範囲の違いにおさまっていると言うことができる。 このことは18世紀のはじめに王立スペイン語アカデミーがブルボン朝によって設立され、カスティーリア語の体系が固定化されたことによっても説明できるが、16世紀スペインといえば、なによりも文学においてはドンキホーテのセルバンテス、絵画においてはベラスケスを輩出したいわゆる黄金時代のただなかにあって、文化的な繁栄と成熟が言語の安定をももたらしたと見た方が適切ではないだろうか。 したがって、演奏において,あまり一般的でない古い発音を採用しなければならない積極的な理由には乏しく、なによりも歌詞やその語感につよく結びついた音楽を考える上ではより身近に接することのできる現代の発音を参照した方が有効だとするのもひとつの考え方である。このような観点から私たちはこの公演では原則的に現代カスティーリア語の発音を採用している。 <永井保成> 【このページのトップへ戻る】 |
コラム:神様マリア様ご聖人様 |
『エンサラーダス』の中には聖母マリアやカトリックのいろいろな聖人様が登場します。 「苦しい時の神頼み」は洋の東西を問わないようですが、日本なら「神様仏様!」になるところ、スペインでは「神様マリア様ご聖人様」になるのですね。でもキリスト教は一神教だし、聖母マリアもひとりしかおられないはずなのに、『エンサラーダス』にはあれこれの「聖母様」「聖人様」助けて!が出て来るのはなぜ?そんな疑問から調べ始めました。 16世紀の人々にとって、キリスト教の神様は唯一絶対にして畏れ多い存在でした。人々はそれを仰ぎ見つつも、その神様へのお取りなしを願い、直接におすがりする対象として、もっと身近で優しいマリア様の存在を必要としたのでしょう。 聖人がたについても、日本に八百万の神々がいまして、それぞれに専門分野(?)があるように(例:八幡さまは必勝祈願)、それぞれに功徳があってこそ聖人の列に加えられ、人々から神様へのお取りなしをお願いする存在となりました。これら聖人崇拝は、プロテスタントでは現世利益の追求として真っ先に否定されましたが、先のように考えると、16世紀スペインの人たちの「お願い」が少し身近に感じられるようになりました。 では演奏会の曲順に従って、スペインの聖母・諸聖人崇拝のミニ紹介をいたしましょう。 【エンサラーダス『La Bomba』より】 《モンセラットの修道院と「モンセラットの貴婦人様」マリア》 バルセロナの北西約60キロにある、鋸で切り出したような奇妙な形の岩山がカタルニャ地方の霊場モンセラットで、その中腹にべネディクト派の修道院が建っています。ここに祀ってある「モンセラットの聖母」はカタルニャの守護聖母です。12世紀の貴重なロマネスクの彫刻像で、色が黒いことから「黒いマリア」または「ラ・モレネタ」と呼ばれ、地元の人たちばかりではなく、スペインほかヨーロッパ各地からも巡礼者が大勢訪れます。 《ロレートの聖母》 イタリア中部アドリア海に面する小都市ロレートの中心に、聖母ゆかりの聖堂があります。さらにこの聖堂の中心には 、古い小さな家があります。これは、13世紀に聖地ナザレから運ばれてきた、ある質素な家の壁を組み立てて再現されたものです。言い伝えによれば、その壁は 、処女マリアが住んでおられた家の壁だとされています。 《グアダルペの聖母》 スペイン南西部のエストレマドゥラ地方にグアダルペの街があります。ちょうどイベリア半島の中心に位置する場所です。13世紀、この地に聖母マリア像があらわれる奇跡が起こったのが元で聖堂が建ち、のちに修道院ができました。スペインでは聖母崇拝がことに盛んだったので、大航海時代の船乗りたち・冒険家たちはグアダルペのお守りを持って出航しました。 《サンティアゴ》 聖ヤコブ。キリストの12弟子のひとり。遺骸がイベリア半島の西北端ガリシア地方に運ばれたという伝説から、彼を奉るサンティアゴ・デ・コンポステーラ教会が建てられました。同地ばかりでなく、スペイン全土の守護聖人でもあります。 イベリア半島の北側を通る「巡礼の道」、ここは今でも上記教会を訪ねる巡礼者が歩きます。しかしその距離、出発地点をどこにするかでも違いますが最短で800km(!)。最近は自転車でも巡礼可になったようです。巡礼者たちは中世の昔から、聖ヤコブの印であるホタテ貝の貝殻を身につけて歩く習慣があります。 《サント・ヒネス》 古い時代の聖人「アルルのゲネシウス」と思われます。Genesius→Genes(ジェネス)→スペイン語読みで「ヒネス」となったものでしょう。 ジェネスはローマ帝国支配時代のゴール(フランス)で速記者の職についていましたが、ある日キリスト教徒に関するローマ皇帝の勅令を書き取る仕事をしていた時に、突然石板を投げ捨て、「自分はキリスト教徒だから、これを書くことはせぬ!」と宣言し、逃亡しました。彼は隠れ場所を探しましたが結局捕らえられ、ローヌ川の岸辺で打ち首に処せられました。彼は「自分の血で洗礼を受けたもの」として崇敬の対象になりました。 さらに伝説によると、ジェネスは斬首された後、自分の頭部を抱えていってローヌ川へ投げ入れ、その首は海路スペイン南東部の海岸に打ち上げられた。その後、聖ゲネシウス崇拝はフランス,スペイン,イタリアにまで拡大した、とあります。水に関連が深く、また南仏アルルはスペインと地理的に近いという点からも、船乗りたちが聖ゲネシウス(ヒネス)様に救いを求めたのは、自然なことだったのでしょう。 《サント・エルモ》 3世紀の聖人。船乗り・水夫を守護する聖人として知られています。 ラテン語ではエラスムスと呼ばれ、シリアで主教をつとめていたと伝えられます。しかしローマ皇帝ディオクレティアヌスに迫害され殉教。その際の処刑道具に巻き上げ機が使われたというので、後に「錨の巻き上げ機」を使う船乗りの守護聖人として仰がれるようになったというのですが、この辺の”発想の転換”、筆者には少々理解し難いです...。 なお、航海中の船のマストの先に、嵐の時などに現われる放電現象は「聖エルモの火」と呼ばれ、この聖人が守っていて下さる印といわれます。 【エンサラーダス『ラ・フスタ』編】 《サント・アントン》 ラテン語では「アントニウス」で、同じ名前の聖人は沢山おられるのですが、「悪魔との戦い」にかけては「砂漠の聖アントニウス」を措いて他にはおられないでしょう。 伝説によると彼の生涯は251〜356年。エジプト・メンフィスの裕福な家に生まれましたが、20歳のとき、教会で「持ち物はすべて売って貧しい人に施しなさい」というキリストの言葉を聞くと、ただちにこれを実行して砂漠に赴き、その地で陰棲して一生を祈りに捧げました。そこへ悪魔の誘惑が忍び寄ります。 誘惑第1弾は初めに家族の絆・金銭欲・名誉欲・食欲・人生の楽しみ事といった、彼が断ち切っていた現世の諸々のことを、次いでは美徳が要求する辛い労働を問題にしながら、苦行をすぐに止めるようにと挑み、最後には美女に化けて誘惑しようとしたのですが、アントニウスは何とかこれに打ち勝ちました。 第2の誘惑はまず、悪魔率いる魑魅魍魎どもとの戦い。次に猛獣に姿を変えた悪魔との戦い。アントニウスは孤軍奮闘すれども全身傷だらけ、息も絶え絶え。そうなった時、天から一条の光が差して来ました。アントニウスはそれが何なのか分かったので、こう問いかけました。「主よどこにおられたのですか?なぜ最初のときはここに来てくださらなかったのでしょうか?それになぜわたしの傷も治してくだされなかったのでしょうか?」 と言うと、「アントニウスよ、私はあなたのそばにいた。 しかし、あなたの戦いぶりを見たかったからそのままにしていたのだ。 あなたは実に勇敢に戦った。 私はこれか らいつでもあなたに救いの手をのべよう。 そしてあなたの名声を広く伝えよう」と言う声がどこからともなく聴こえた、といいます。 その後、彼を慕って弟子たちが集まり、隠遁者の集落ができました。これは後にキリスト教の修道院生活の基本となりました。 この「悪魔の誘惑と戦う聖アントニウス」は多くの画家・版画家の創作意欲を刺激し、たくさんの作品が残されています。英語では聖アントニー、フランス語では聖アントワーヌとなりますが、この名前と「誘惑」の結びついた題名の絵を見たら思い出して下さい。 《セニョーラ》 これは聖母マリアのことと思われます。 《サン・ブラス》 ラテン語ではブラシウス。?〜316年。 伝説ではアルメニアに住んで、医師・司教として働いていましたが、ローマ皇帝リキニウスの迫害を逃れるため、森の中の洞窟を住処として、そこを宣教の拠点にしていました。森の動物たちの病気を治してやったこと、子供の喉に魚の骨が刺さって窒息寸前のところを、彼が十字を切って祈るとたちまち回復したことなどで、カトリック諸国では病気、特に喉の病気のときに祈願する聖人として知られています。 また、次のような逸話もあります。ひとりの貧しい寡婦が飼っていた、たった1匹の豚を狼にさらわれた時、ブラシウスに懇願すると、狼が現れて豚を返しに来た、というものです。そこでブラシウスは「家畜を(狼から)守る人」の守護聖人にもなりました。 狼は中世には悪魔の化身と考えられていましたし、"La Justa"の歌詞にも悪魔の象徴として「狼」が出て来ますので、聖ブラシウス様の出番にはふさわしいと思います。 《バプテスマの聖ヨハネ》 スペイン語ではサン・ホアン。聖母マリアの親類にあたる聖ザカリアと聖女エリザベトの間の子で、イエス・キリストに6ヶ月ほど先立って生まれたとされます。成人してのち、荒野で修行をし、人々に洗礼を授けていました。そしてイエスが洗礼を求めてヨハネのいるヨルダン川の水辺に現れたとき、ヨハネはこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章29節より) 主な参考文献・資料: ・『聖人事典』(ドナルド・アットウオーター&キャサリン・レイチェル・ジョン著、 山岡 健・訳、三交社、1998年) ・"Oxford Dictionary of Saints"(D.F.Farmer著、1997年) ・『黄金伝説』(ヤコブス・デ・ウォラギネ著、13世紀後半?に成立、前田 敬作&今村 孝・訳、人文書院、1979年) ・『バースディ・セイント』(鹿島 茂・編、飛鳥新社、2000年) ・その他、「スペイン政府観光局」をはじめとする多数のホームページ <新井紀子> 【このページのトップへ戻る】 |
ルシファーはなぜ妬む?? |
”LA JUSTA”の、悪魔ルシファー対アダム&キリストの一騎打ちは、とてもおもしろいですよね。今回のエンサラーダスの目玉ではないでしょうか。 でも、ルシファーが愛する「嫉み」という女性は一体誰なんでしょうか?「お前らのせいであいつを愛するようになった」ってどういうこと?それに高慢さが後見人?ルシファーの銘だって何かいわくありげな感じがするし・・・。こんな疑問が沸いてくるかもしれません。 では、悪魔ルシファーが一体どんな奴なのかを見ていきましょう。実はルシファーは、かつて美しい天使でありました・・・ 「ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。 お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒したものよ。 かつてお前は心に思った。 『わたしは天に上り、玉座を神の星よりも高く据え 神々の集う北の果ての山に座し 雲の頂きに登っていと高き者のようになろう』と」 (旧約・イザヤ書:14.12-14) この部分は比喩的にバビロン捕囚を予言しているのですが、ルシファーを表わす文章としてお馴染みになっています。でも、どうしてルシファーは堕天使になってしまったのでしょうか・・・ ――天地創造において、神は人類より先に天使を創造した。天使は9階級に分けられており、最上の階級の中での最高の天使、神自身に次ぐ存在として創造されたのが、ルシファーだった。ルシファーは天使の中で最も賢く、美しい熾天使(セラピム)であった。 熾天使の特権は神に最も近い位置に立つことであったが、ルシファーはやがてそんなものでは満足できなくなり、神の玉座に付くという野心を抱くようになった。なぜルシファーが最高位にあったのかというと、神が天使を創造した時、この天使は真っ先に神を讃えて歌い出し、このことがきっかけで、神はルシファーを他の天使とは別格の存在としてみなしたからだ。そんなわけで、慢心した熾天使は、自分はひょっとして神と同じくらい偉大な存在なのではないかと考え始めた。これこそがルシファーの堕落の原因、「高慢さ」なのである。 そして、神が不在の時、ついに玉座に座ってしまう。おまけに「私のほうが神より尊い存在なのだ。」とまで言ってしまったのだ。一部の天使は彼を恐れ、彼に従う。玉座に座るルシファーを見つけた神は大いに怒り、ルシファーと彼に従った天使たちは、天国から地獄へと追放されてしまう。 天国を追われたルシファーらは、醜い悪魔へと変貌していた。かつては輝くように美しかった自分の姿を、高慢さの代償として失ったことをルシファーは嘆く。 やがて神は人類を創造した。実は、かつてルシファー達のものであった、天使の階級を埋めるために、人間は創造されたのだった。この人類補完計画は、ルシファーに激しい妬みをもたらす。 こうして神への復讐を誓った堕天使は、創造の貴重な宝石である、アダムとイブを破滅させる企みを思いついたのだった。「人類におれの妬みを教えてやる。」ルシファーは、彼を天から落下させた罪とまさに同じである、高慢の罪へとイブを誘う。「この実を口にした時、あなたは神に等しい知恵を持つだろう。」そして、ルシファーは人類に原罪をもたらすことに成功したのだった。 これでもうおわかりですね?人間のせいで、高慢なルシファーに嫉妬心が生まれてしまったのです。この話は、神とルシファーとの人間の霊魂をめぐる戦いの話なのですが、ルシファーはアダムとイブを堕落させた後も、カインにアベルを殺害させたり、キリストを誘惑したり、神に挑戦し続け、キリストの受難と悪魔に対するキリストの勝利と、キリストの地獄めぐりを経て、キリストの復活によってクライマックスに達し、最後の審判で、この話は終わります。 中世の時代には、上の話を題材にした演劇が数多く上演され、当時の人々から熱狂的に迎えられました。劇は馬上槍試合に酷似していて、神とルシファーが競技場に登場し、人間の霊魂の争奪戦が繰り広げたと言われています。"LA JUSTA"もまさしくその通りですね。 この話以外にも、悪魔が聖人を誘惑する話など、様々な道徳劇・奇蹟劇・神秘劇が、聖職者によって作られました。劇は無教育な観衆を楽しませると同時に、教化するのに非常に有効な手段だったのです。民衆は劇を通して、聖書から得るより遥かに多くの教訓を学びました。 さて、どの劇でも悪魔が圧倒的な存在感を放っています。聖職者達は民衆の教化のために、悪魔を実に上手に利用しました。この時代に悪魔が広く民衆に訴える力を持っていたのは、悪疫、飢饉、戦争による、ヨーロッパの荒廃のためでした。 ところが、おもしろいことに、恐ろしい存在である悪魔は、劇の中では滑稽な道化として登場します(今回のパントマイムもそうですよね)。時には、悪魔は奇声を発したり、色々変なことをしでかします。これは、非キリスト教徒=悪魔を表わすための演出として、「悪い」振る舞いは、しばしば「ばかげた」振る舞いで表わされているからです。ここには笑いによる娯楽の芽が潜んでいました。 聖人を誘惑したり、苦しめたりする悪魔が、最後には恥をかかされ、時には手荒くやっつけられてしまう。観衆は、どんなに恐ろしい闇の力も、キリストや聖人によって、必ず打ち負かされるという結末を知っているので、得意になっている悪魔を、ニヤニヤしながら観ているのです。 ここでの笑いは、悪魔に共感したものではなく、観衆は彼の破滅を笑いものにして楽しみました。疫病、戦争などの災難を恐れていればいるほど、また、自らの罪について自責の念が強いほど、悪魔の完敗を見て感じる解放感は、非常に大きいものとなったのです。 最後になりますが、現存する道徳劇のテクストによって、劇の口上役(語り手)の存在が示されています。語り手は話の展開と共に、その劇が観客にとってどのような意味があったのかを教える役割を担っていました。 私達は今回エンサラーダスを演奏するにあたり、このような歴史背景を意識して取り組みました。音楽・語り・パントマイム、これらが融合したまさにスペクタクル!な宗教活劇を楽しんでいただければ幸いです。 <今井瑛里子> 【このページのトップへ戻る】 |
コラム:敗戦のルシファー、悪魔の仲間を語る |
俺さまはルシファーだ。今日の試合相手はアダムと聞いて楽勝!と思ってたら、神の子イエスの登場と来た。おまけに人間どもまで寄ってたかって、俺をめった打ちにしやがって。ああ、痛てて...。色男も台無しだぜ。 ところで今日は俺様が魔界の代表で試合に出たが、俺の仲間にはいろんな種類がいるんだ。 「サタン」というのは悪魔全体の総称で、古いヘブライ語の「敵」っていうのが元の意味だ。俺みたいに、神に背いたために地獄に堕とされた天使は、スペインじゃ「ディアブロ」って言われる。天国で俺と一、二を争う男前だったベリアルや、賢明なアザゼル、富めるマンモンもそうだ。今は俺がそれらの頭領だ。 「デモニオ」とか「デーモン」と呼ばれる連中は、もともとギリシャ語で「善い神」「悪い神」両方を指す言葉だったが、キリスト教の世界が出来上がってからは、まとめて悪魔扱いされておる。何でも最近は、日本にもこの名を名乗る輩がいるそうじゃな。 その他に、古代ユダヤの周辺諸国で神とあがめられていた連中も、ユダヤ教・キリスト教が一神教に収斂して行く過程で悪魔扱いされ、我々の仲間入りをした。モロクやバアル、アシュタロテといった古代の神々がそれにあたる。もっとも美人でセクシーな元・女神もいるから、俺としては悪い気はしないが。へへへ。 その点、「八百万の神」の存在を許す日本国は、平和というか何というか...、だねぇ。え? 「貧乏神」はイヤだ? そんなのも居るのかい、へぇ〜。 面白いことに、ユダヤ教・キリスト教に天使と悪魔がいるように、イスラム教にも天使と悪魔がおる。イスラムの悪魔も、もとは天使だったのが堕落して地獄の住人になったのさ。今だもって人間は、キリスト教の国とイスラムの国、ユダヤ教の国がお互いを「悪魔」と呼び合って戦争なんぞしとる。俺から見ても馬鹿なことだ。 ところで、どうして我々が存在するのかって? うーむ、唯一絶対の神という「善」の存在を人間に信じさせるためには、その対極として、人間を悪へと誘惑する存在が必要だったからなんだろうな。 さて、そろそろ失礼する。まず湯治でもして傷を癒すとしよう。これを代筆してる女が日本の大分・別府温泉を薦めてくれたんだ。「あそこは十分に熱くてよく効くし、お帰りにも便利ですよ。『地獄谷』ってのがあるくらいだから...。」だと。まったく口の減らない女だ! 煮ても焼いても食えん奴とはこのことだ。 では、さらば。またどこかで会おうぜ。 参考文献: ・John Milton "Paradise Lost" (1667) ・『イメージ・シンボル事典』(アト・ド・フリース著、山下 主一郎ほか訳、大修館書店、1974年) <新井紀子> 【このページのトップへ戻る】 |
作曲家の紹介 |
マテオ・フレチャ(i)(1481年?〜1553年?) 今回演奏する『エンサラーダス』の作者。 カタルーニャ地方タラゴナ近郊に生まれ、同地方にて没。 バルセローナで教育を受けた後、レリダ大聖堂に歌手、次いで523年より楽長として奉職。 1525年末ごろからインファンタード公爵家、34〜44年バレンシア地方でカラブリア公家に仕え、43年からアビラ近郊のアレバロにてマリーア、フアーナ両王女(スペイン国王フェリペII世の妹君たち)の宮廷楽長になる。 マリーア王女が1548年、オーストリアのマクシミリアン大公(王女の従兄、のち皇帝)に嫁した後、フレチャの名前は宮廷の記録から消えている。 後述の同姓同名の甥と区別するため、Mateo Flecha "El Viejo"(老マテオ・フレチャ)と呼ばれることもある。 マテオ・フレチャ(ii)(1530年ごろ〜1604年) カタルーニャ地方タラゴナ近郊に生まれ、レリダのポルティヤ修道院で没。 1543年からアレバロ城のマリーア、フアーナ両王女のための少年聖歌隊員として仕え、1568年、オーストリア皇帝マクシミリアンII世の后となったマリーア王女付きの司祭 兼 音楽家となる。 1581年、伯父マテオ・フレチャと他の作曲家の作品に、自作も交えた『フレチャのエンサラーダス集』をプラハで出版。その他に自作の『マドリガーレ集』(1568年ヴェネツィア刊)などを残した。 伯父と区別するためMateo Flecha "El Joven"(若いマテオ・フレチャ)と呼ばれることもある。 【このページのトップへ戻る】 |
フランシスコ・ゲレーロ(1528年〜1599年) セビーリャで生まれ、同地で没した。 兄ペドロに音楽の手ほどきを受けた後、短期間クリストバル・モラレス(1500年ごろ〜1553)に師事。 1546〜48年、ハエン大聖堂の指揮者、1550年よりセビーリャ大聖堂の歌手となる。 1554年、モラレスの後任としてマラガ大聖堂の聖歌隊指揮者となるが、翌年にはセビーリャへ戻り、同地の楽長になる。 1581〜84年にかけてローマに滞在。また1588〜89年にかけて、ヴェネツィア経由で聖地エルサレムへの巡礼を行なった。これらの旅行の目的には、イタリアの優れた楽譜出版技術により、自らの作品集を出版すると共に、海外の音楽家たちとの交流も含まれていたと思われる。 出版された作品集にはミサ17曲、レクイエム2曲、モテット集4巻、詩編・マニフィカト・晩課・受難の音楽など多数、またスペイン語の詩による宗教的マドリガーレ集がある。 また『ウプサラの(カラブリア公家の)歌曲集』(後述)の編纂にも関わったという説があり、同曲集の中には彼のものとされる作品が幾つか含まれている。 【このページのトップへ戻る】 |
アロンソ・ロボ(1555年ごろ〜1617年) サラゴサ近郊のオスーナで生まれ、1593年からトレド大聖堂楽長、1603年からはセビーリャ大聖堂の楽長を勤め、同地で没した。 彼の宗教曲はマドリッドで1602年に出版された『ミサ曲集第1巻』に収められたミサ曲・モテットのほか、手稿譜の形で多数残されている。 今回演奏するモテット「わがハープは悲しみの音に変わり」は、スペイン国王フェリペ2世(在位1556〜98)の葬儀で演奏されたものである。 【このページのトップへ戻る】 |
《ウプサラの(カラブリア公家の)歌曲集》 1909年、スウェーデンの大学都市ウプサラで、16世紀の定量白符記譜法による、スペイン語(カスティリャ語)・カタルーニャ語・ラテン語などによる多声曲集が発見された。 2声、3声、4声、5声曲あわせて54曲のほか、グレゴリオ聖歌の5声用アレンジやオルガン用編曲も含まれている。 キリストの誕生や聖母マリアを讃えるクリスマス用の作品のほか、庶民の率直な感情を歌った世俗的な歌曲も多数あり、その多くは恋愛に関するものである。 この曲集は発見地の名前をとって『ウプサラの歌曲集』の名で長らく親しまれてきたが、その後の研究により、スペイン東部バレンシアの有力貴族で音楽好きのカラブリア公フェルナンドの城館に1526年ごろから1554年ごろまで仕えていた音楽家たちが、公爵および2人の夫人のために演奏した曲を集め、ヴェネツィアの出版業者ジロラモ・スコットに組版・印刷させたものと分かった。 このため、最近の録音では『カラブリア公家の歌曲集』の名前を採用している音楽団体もある。 【このページのトップへ戻る】 |