ラ・ヴォーチェ・オルフィカ 横尾 優
1.はじめに
現代、私たちが普通に使っているピアノやキーボードなどは、すべて「平均律」という便利な調律法で調律されていることはご存じですね。
ところがこの便利な調律法は、自然な倍音すなわち「感性」の音楽からではなく、大変人工的な「理論」から生まれたものなのです。このため、どのような調でも使える代わりに、すべての和音が少しずつ濁って(純正から狂って)いるのです。
この平均律は、昔から使われていたわけではありません。中世−ルネサンス−バロック−古典派など、現代を除くすべての時代にわたり純正な響きを用いた、様々な調律法が考案され用いられてきました。
こうしたことから、特に中世−ルネサンス−バロック時代の音楽を当時の様式で演奏しようとする、いわゆる古楽の演奏家たちは、平均律ではなく、その時代に用いられていた調律法による演奏を行っています。それでは、なぜ調律法はいろいろ存在し、現代は平均律が使われるようになったのでしょうか?なぜ古楽の演奏家は、便利な平均律を使わないのでしょうか。
2.調律の基礎知識
(1)昔の音の世界と神様の試練
昔の人は、現代よりずっと静寂な世界に住んでいましたし、音楽の音の実体を「周波数」などと機械的にとらえることなどありませんでした。特に西洋キリスト教世界では、音楽(と楽音)は神の世界の調和を体現するものとして、純正な響きしか考えられなかったのです。 ところで、ピアノの鍵盤でド→ソ→レ→ラ…と5度ずつ上にとっていくと、鍵盤にある12音すべてが出せます。そして12番目の「ファ→ド」でドの音に戻ります。(もちろんずっと積み重ねてばかりでは高くなりすぎてしまいますので途中で適宜オクターブ下げたりします) さて、このときピッタリ元のドの音と一致すれば、中世の音楽理論書は「音楽の世界は神が支配する宇宙の絶対調和をそのまま顕わした」と表現したでしょう。しかし、神様は何を思ったか「純正」の5度の積み重ねでは12番目に出てくるはずの音を元の音よりずっと高い音にしてしまったのです。つまり5度の積み重ねのサークル(「五度圏」と言います)が閉じないのです。 この「純正な5度の積み重ねによる12音のサークルがちゃんと閉じないこと」が、音楽を行うものすべてに与えられた神様の試練なのでした。ここから、調律にまつわるすべての物語が始まります。 |
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平均律は、例えばド−ドの1オクターブを1200セントと定め、この1オクターブを「均等な」半音12個に分割し、その均等な半音を100セントとしたものです。(セントとは、イギリスの音響学者A.J.エリス(1814-1890)が周波数を対数で表したものですが、ここでは難解な部分があるので解説しません。)
ですから平均律では、ミの音はドに対して単に4番目に、ソの音は7番目に割り振られただけの音なのです。
また、ド−ソの5度は、間に半音が7つありますから700セント。ド−ミの長3度は同じく400セントです。また、ド−ソの5度でも、周波数の異なるレ−ラの5度でも、セントで表わせばどちらも700セントとなりますので、大変便利に使えます。ですから、平均律の5度を積み重ねた五度圏はピッタリ元の音に一致し「閉じて」います。
これからのお話しは、現代の私たちに理解し易いようこの平均律のセントを基準に説明します。
(3)振動数比について
ところで、「純正」な5度とは弦の長さが「3対2」の時の振動数比(例えば、もとの音の弦の長さが「3」の時ドの音が出た場合、その「2」(3分の2)に相当する長さの弦の音が5度高い純正なソであるということ)であり、同じく純正な長3度は「5対4」であるということも基本的知識として覚えておいて下さい。
ここで、このような唸りのない純正な5度は、セントで表すと「702セント」、同じく純正3度は「386セント」であることを記憶して下さい。
(4)五度圏が閉じられない理由
昔の、濁りの許されない純正な音の世界で五度圏が閉じられない理由は次のとおりです。 例えばド−ドの1オクターブは唸りのない純正な8度ですが、途中のミやソなどの音は、基準の音からの「純正な響き」で決められたのです。 1オクターブは5度が12回積み重なったものですが、1回の純正5度で2セント(702セント−700セント)ずつ平均律より高くなってしまうのです。この結果、純正な5度を12回積み重ねると、2セント×12回=24セント(1/4半音ほど)も音が狂ってしまいます。これを「ピタゴラス・コンマ」と言いますが、純正の音を用いながらも、何とかこの狂いを解消しようとしてきたのが、いろいろな調律法なのです。 平均律は、どのような調でも演奏できるよう、狂いを解消する方を優先し、音が「純正」であることを捨てた調律法なのでした。 |
3.主な調律法と使用された時代
昔から有名な音律や調律法には、次のようなものがあります。それぞれ特徴と使用された時代をみてみましょう。
(1)ピタゴラス音律
(2)純正律
(3)中全音律(アロンのミーントーン)
(4)キルンベルガーの第3調律
(5)ヴェルクマイスターの調律法
(6)平均律
@基本 基準の音から上方(ド→ソ…)と下方(ド→ファ…)に純正5度を順次とっていく方法で、その先端のC♯とA♭など、あまり使わない2音間に24セントの濁り(ヴォルフトーン=オオカミのうなり声)を寄せてしまおうという調律法です。 A特徴 |
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★上の表は、分かりやすくするため「ド(C)」の音を基準にしましたが、元々の基準音である「ラ(A)」を基準にすると次のようになります。
「ピタゴラス音律」の「A(ラ)」を基音としたセント数 | ||||||||||||
♯系 | A | A♯ | H | C | C♯ | D | D♯ | E | F | F♯ | G | G♯ |
セント数 | 0 | +16 | +4 | △6 | +10 | △2 | +14 | +2 | △8 | +6 | △4 | +12 |
♭系 | A | B♭ | H | C | D♭ | D | E♭ | E | F | G♭ | G | A♭ |
セント数 | 0 | △10 | +4 | △6 | △16 | △2 | △12 | +2 | △8 | △18 | △4 | △14 |
※この結果、ピタゴラス音律では、一般にシャープ系の音は高めに、フラット系の音は低めになりますね。
ですから、「ド−シ−ド」や「ファ−ミ−ファ」など「導音」は、自然に間隔が狭くなり、旋律的に美しく聞こえます。
※時代的にも、単旋律の音楽が中心の時代に使われたと思いますので、旋律的に美しく完全5度の和音がきれいなら問題ないのでしょうね。
※ただし、この音律が使用された時代は「3度」は「不協和音」に分類されていたとのことです。
(濁りのない完全3度が「386セント」なのに対し、ピタゴラスでは「408セント」と非常に広く、唸ってしまうからです。)
(2)純正律 (2000/7/15 追加)
@基本
15世紀にいたり、長3度の音程比を5/4にすると濁りのない純正な3度が得られることから、ピタゴラス音律に純正3度を加えたものとして成立したものです。
例えばハ長調の場合の純正律の振動数比は、C(1),D(9/8),E(5/4),F(4/3),G(3/2),a(5/3),b(15/8)となります。純正律では、ド−レ、レ−ミなど「全音」の音程に、大きな全音(大全音)と小さな全音(小全音)が生じます。
A特徴
この音律は1オクターブ内で使用する限り、転調や変位記号(♯や♭)を使わない場合に理想的な音の響きをもたらします。礼拝堂で行われるような無伴奏の曲では、人間が自然に3度や5度を純正にとっていましたから、純正律はこれとマッチしていたのでしょう。
しかし、これを12の鍵盤しかない楽器に当てはめると、特定の調しか演奏できないとても不自由なものとなります。
@基本
ミーントーンとは、純正な3度を基本として5度の純度を犠牲にした調律法です。ミーントーンにはいろいろヴァリエーションがありますが、ヴェネツィアのピエトロ・アロン(1490-1545)が1523年に理論書に残したものが「アロンのミーントーン」と言われ有名です。
純正な3度は、ド→ソ→レ→ラ→ミの間の4つの5度を少しずつ狭くして、ド−ミの間が平均律の400セントより14セント狭い386セントになればいいわけです。
平均律の場合は、14÷4=3.5セントですから、平均律の5度の700セントを696.5セントにすれば3度が純正になるわけですね。(700−3.5=696.5セント)
中世の音楽理論では平均律はありませんから、純正3度(386セント)とピタゴラス音律の広い3度(408セント)の差22セントを、4カ所の5度で4分の1(22÷4=5.5セント)ずつ純正5度より狭く(702−5.5=696.5セント)すれば、3度が純正になるわけです。
ミーントーンは純正律の大全音、小全音の区別を無視して長3度音程の中間に全音が位置するように調律されますので「中全音律」と呼ばれます。
A特徴
15から16世紀になると、多声音楽が発達し、第3音を含む和音のありように関心が寄せられるようになりました。ピタゴラス音律のような3度を無視した虚ろなハーモニーではなく、5度を犠牲にしても3度を純正にするミーントーンによる調律を用いることで、全体の音楽の美しさや充実感が浮き出るようになりました。つまり狭い5度は唸りを生じているのですが、そこに含まれる純正な長3度音程の美しさが卓越しますので5度の濁りが気にならないのです。
特に当時、鍵盤楽器や器楽伴奏の発達により、12の鍵盤に何とか音を割り付ける必要があったのですが、純正律のような複雑で、特定の調しか演奏できないという調律方法では限界があったため、純正律の純正な長3度をなるべく多くの調で生かすことができるミーントーンのような調律法がいろいろ考案されたのです。
ただし、すべてを狭い5度で調律するため、12回積み重ねたひずみは42セント(3.5セント×12)にも及び、このヴォルフトーンを含む調はまったく使えません。なお、ヘンデルが使用していたオルガンはミーントーンで、黒鍵を半分に分割してこの問題を解消し、いろいろな調性の音楽が演奏できるよう工夫されていたとのことです。
ラ・ヴォーチェ・オルフィカでは、16−17世紀の宗教音楽の演奏にミーントーンを用いています。
★上の表は、分かりやすくするため「ド(C)」の音を基準にしましたが、元々の基準音である「ラ(A)」を基準にすると次のようになります。
「ミーントーン音律」の「A(ラ)」を基音としたセント数 | |||||||||||||
♯系 | A | (A♯) | H | C | C♯ | D | (D♯) | E | F | F♯ | G | G♯ | ( )内は通常は 使用しない音 →♭♯とも3つ 程度が限界 |
セント数 | 0 | (△24.5) | △7 | +10.5 | △14 | +3.5 | (△21) | △3.5 | +14 | △10.5 | +7 | △17.5 | |
♭系 | A | B♭ | H | C | (D♭) | D | E♭ | E | F | (G♭) | G | A♭ | |
セント数 | 0 | +17.5 | △7 | +10.5 | (+28) | +3.5 | +21 | △3.5 | +14 | (+31.5) | +7 | +24.5 |
※このように「ミーントーン音律」では、一般にシャープ系の音は低めに、フラット系の音は高めになりますね。
ですから、「ド−シ−ド」や「ファ−ミ−ファ」など「導音」は、和音的には間隔が広くなり、旋律的にはやや不自然になります。
@基本 キルンベルガー(1721-1783)はバッハの弟子で作曲家でした。「キルンベルガーの第3調律法」とはピタゴラスとミーントーンを組み合わせたもので、ドからミまでの4つの5度の積み重ねにはミーントーン5度(696.5セント)を用い、その他の5度の積み重ねにはピタゴラス音律の純正5度(702セント)を使用する方法です。 また、狭い5度を4カ所で使用することで、純正5度を12回積み重ねることで生じるピタゴラスコンマやヴォルフトーンをうまく目立たなくしており、ピタゴラス音律やミーントーンのような、はっきり演奏できない調の存在を避けています。 A特徴 |
@基本 ヴェルクマイスター(1645-1706)は、ドイツのオルガン奏者でキルンベルガーより少し古い人ですが、この調律法はバロック時代の演奏会でよく使用されるようです。 キルンベルガーの第3調律法のラ−レの狭い5度を2つ隣のシ−ファ♯の5度に移したものがヴェルクマイスターの第3調律法です。 A特徴 |
@基本
今までの調律法が、すべて純正5度や純正3度をよりどころとしていたのに対し、平均律は、先に説明したとおり五度圏を閉じるために人工的に5度を狭くし、1オクターブを12音に均等に割り振った調律法です。
A特徴
5度はわずかに唸るだけですが、3度が広めで汚い響きがします。しかし、この唸りも現代のような激しい音や人工音が満ち、緊張の高い世界では「緊張感のある音」として感じられるようです。
また、バッハ以降の多様な調性や頻繁な転調の曲や、特に現代の無調性の音楽を行う場合は必須のようです。
演奏という行為が、それまでの特定の人に聴かせるものから、商業的により広いホールでたくさんの聴衆に隅々まで音を届かせる必然性が生じ、何にでもビブラートをつけるようになりました。不必要なビブラートは純正な音の響きなどおかまいありません。しかし、人の感情を繊細に豊かに伝える面ではいかに多くのものを失ったことでしょうか。
このような現代社会の音楽環境に平均律は何とマッチしていることでしょう。
(おわり)
(主な参考文献)
「チェンバロの保守と調律」 (野村満男) |
「古楽のすすめ」 (金澤正剛) |
「音楽の基礎」 (芥川也寸志) |
「純正調へのアプローチ」 (高橋彰彦) |